2024.02.05
島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -参-
海道の城 〜松倉重政伝〜
天津佳之
–参–
「これは、駄目だな」
日野江一帯の地図を見下ろしながら、重政は一言のもとに切り捨てた。
「この城、でございますか?」
側近の岡本新兵衛が尋ねると、すでに腰を上げた重政の目は窓から城下に向けられていた。有馬川の河口にほど近い丘陵に築かれた日野江城からは、海と空、そして遥かに霞む天草の島々さえ見えた。海岸線がてらてらと濡れて見えるのは、大きく潮が引き干潟となっているからである。南には旧主の有馬氏が築いた支城の原城も見えるが、重政は興ざめしたように息をつくばかりだった。
「そうだ。いかに装おうとも、根が古い山城よ。住みにくくて敵わぬ」
日野江城は、もとをたどれば鎌倉時代に築かれた山城である。代々の有馬氏の居城となっており、現在の城郭は、有馬晴信が豊臣政権下で学んだ畿内の築城術を盛り込んだ壮麗なものだった。南を有馬川、東を大手川
に挟まれた丘陵に本丸、二の丸、三の丸を設えており、急峻な斜面を利用した縄張りはいかにも険しい。
「あの支城もな。戦の備えには良いかもしれぬが、戦などもう起こらぬ」
重政の視線の先にある原城もまた、室町時代に築城され、晴信によって改修された海城だった。北・東・南を断崖に囲まれ、唯一地つづきの西側も崖の下に塩浜が広がって、いかにも要害である。
(これから必要なのは戦に備えた城ではない、政事の時代に相応しい城ぞ)
大坂の陣を戦い抜いた重政だからこそ、その確信があった。亡き大御所・徳川家康は大坂の陣で豊臣氏とその恩顧の者どもをことごとく処罰したうえで、武家諸法度と一国一城令を発布し、戦の芽を徹底的に潰した。もはや戦で覇を争う時代ではなく、徳川幕府の統治のもとで政事での功を争う時代に変わったのである。その意味で、ただ堅牢なだけの城など無用の長物だった。
必要なのは、領地経営の中枢として利便の良い城であり、自身の治績を象徴するための城である。その意味でも、険しい山に立つ日野江城は使いにくかった。
「新兵衛、見てもみよ。こう狭くては新町など夢のまた夢よ」
重政にとって何よりも問題なのは、城下があまりに狭小であり、新たな城下町など築きようもないことだった。
七月に日野江城に入った重政は、幕臣から政務を引き継ぐとすぐさま検地の準備に取りかかった。合わせて領内巡見に乗り出し、自らの目でこの地を見てまわる算段も付けている。
諸藩の石高は慶長の初めに行われた検地を基としているが、それは表高……帳簿上のもので、実際の収穫高である内高と大きく差があるのが常である。また、石高として積み上げられるのは田畑が主で、山や海からの産物、あるいは商いによる利潤などがうまく反映されない。それらを自らの目で確かめるとともに、領民に己の顔を知らせてまわる。それが、検地と巡察の狙いだった。
まずは、政庁となっている日野江城の周辺を見てまわった重政だが、早速にもこの城……というよりも、この地の難点に気づいていた。
「なるほど。海も山も迫り、広がりがありませんな」
日野江城の周辺は丘陵が多く、河口に接しており、さらに海岸が近い。開けた平地はわずかしかなく、そこもすでに家臣たちが暮らす武家屋敷で埋まっていた。
「それに、有馬川は暴れ川というではないか。いつ水に流されるか分からぬところに、人は集うまい」
「では、本拠を移されますか」
「無論だ。すでに目を付けてあるが」
「あの山の麓ですか」
そう言う新兵衛はわずかに笑っていた。それが己の内心を見透かされたようで、重政は敢えて渋面を作って見せたが、この側近は笑みを深めるばかりだった。
「殿は、随分とあの山にご執心でおられるので。確かに金剛山か竜門岳、あるいは多武峰か」
「たわけ。あくまで地勢が良いというだけじゃ。ほかに良き処があればそれで構わぬ」
そう言った重政だったが、心はすでに島原に向いていた。それは、新兵衛の言うような情緒の話だけではなかった。重政の脳裏には、病床の大御所・家康が遺した言葉がこびりついていた。
『先年の戦の仕置は、まだ半ばぞ』
その意味するところを重政なりに噛み砕いてみれば、やはり城と城下の繁栄は必要不可欠なものと思えたし、海水運とのつながりは是非ともほしいところであった。
「いずれにしろ、日野江と原は捨てるぞ。……ここならではの面倒もあるゆえな」
「その面倒がやってきておりますぞ」
その言葉に、重政はようやく新兵衛を正面から見た。
「トーレスと名乗る紅毛人が謁見を求めております」
日野江は当時、日ノ本でもっともキリスト教が浸透していた土地と言っても過言ではない。永禄五年(一五六二)、当時の有馬義直が南にある口之津をポルトガル船の寄港地としての許しを与えて以来、南蛮貿易の拠点として栄えると同時に、多くの宣教師が来航し、キリスト教会の日本布教の本拠地となった。
さらに、最後のキリシタン大名と呼ばれた有馬晴信の庇護のもと、イエズス会が設立した神学校・セミナリヨが置かれ、そこで教化を受けた土地の者がキリシタンとなった。むしろキリシタンが多くなりすぎたために、仏門寺院などの破却や仏教徒への迫害さえも横行した土地柄である。
もっとも、慶長十七年(一六一二)に幕府は禁教令を出して直轄地でのキリスト教布教を禁じ、教会を破壊した。諸藩もこれに倣った措置を取っており、事実、晴信の子の直純は領内のキリシタンを弾圧して改宗を強制し、セミナリヨも閉鎖の憂き目に遭っている。
こうした経緯もあって、日野江に残る西洋人は建前上宗教者ではなく、商人や船員などに限られている。ついでに言えば家康の死去後、現将軍の徳川秀忠が発布した二港制限令により、外国船の入港は長崎と平戸に限られ、オランダ人とイギリス人以外の西洋人もマニラやマカオへ追放となっているはずだった。
「このたびは松倉様にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます」
トーレスと名乗るオランダ人は、流暢な和語でそう挨拶した。
「随分と大和言葉が達者だな」
「お誉めに預かり恐縮にございます。マニラで日ノ本の言葉を習い、通詞としてこちらに参りましたゆえ」
「然様か。……言葉に達者な紅毛人となれば、まず伴天連と相場が決まっておるでな」
重政が西洋人を見るのは初めてではない、大和国のある畿内には、織田信長の受け入れ以来多くの西洋人が流入していたし、信長の居城であった近江の安土にはセミナリヨもあった。摂津にはキリシタン大名として名を馳せた高山右近も居り、西洋人の居留地や教会も多かったため、重政に驚きはなかった。
「当今、伴天連を見つければ捕らえて海外へ追放せねばならぬ」
「承知しております。船ひとつのこととは申せ、遠くマニラまで向かうだけでも費えは莫大なものとなりましょう。それも、ただひとりふたりの者も運ぶだけのことに」
トーレスの言いぶりに、重政はわずかに目を細めて、このオランダ商人の彫深い顔を見つめた。とても商人には見えない、表情の薄い顔を。
長年、大和で南都の仏教勢力を相手にしてきた重政は、その手の顔つきをよく知っていた。信心深く、宗門に身を置く者……宗教者の顔である。彼らは出家して俗世の埒外に居ながらも、俗世における権益を欲してやまない。そう思えば、このトーレスとやらがキリシタン宗門の者であることも、この会見の意図も明白だった。
日野江に潜伏する伴天連を、積極的に探し出して追放するのは割に合わない、と。重政にそう言いに来たのである。
「……そなたの言う通りだ。儂はこの地に入ったばかりゆえ、新たな政(まつり)をはじめる元手を無駄にしとうはない。どうせ船を出すならば交易でもして、利を得たいものよな」
オランダ人の意図を正確に読んだうえで、重政は水を向けた。もともと、重政にはキリシタンを弾圧するつもりはない。大和での経験から、宗門とは適度な距離をおいて付き合い、ときに貸し借りを作り合うくらいが丁度よいのである。
もちろん、幕府の禁教令に表立って逆らうことはできない。が、何ごとにも本音と建前があるものだった。そして、日ノ本のことを学んできたというオランダ人もまた、それを知っているらしかった。
「でしたら、どうぞわたくしにおまかせください。幸い、高砂、マカオ、交趾、マニラなどに商い仲間がございます。松倉様がこれらの地と交易をお望みならば、彼らとのあいだを取り持つことをお約束いたします」
その見返りに、なとどトーレスは言わないし、重政も敢えて追及はしない。言わずもがなだが、それが世事というものである。
そして、トーレスの申し出は、重政にとって渡りに船だった。
肥前高来の小大名である有馬氏が、豊臣政権に深く食い込むことができたのは、南蛮貿易によって築いた財にあることは周知の事実である。そしていま、新たな政事をはじめようとする重政にとっても、その財は必要なものだった。実際、重政はすでに、有馬のものを引き継ぐ形で、海外渡航の許しとなる朱印状を幕府に申請していた。
「いずれ、上様のお許しを得て船を出すつもりだ。ゆえ、そなたの仲間とやらにそのときを待つよう伝えよ」
言外の含みを言い聞かせるように、重政はトーレスの緑色の目を見据えていった。
「御意にございます。仲間たちも喜びましょう」
言いながら、トーレスは両手を合わせて合掌した。仏教の型に似ていながら明らかにちがうその手印を、重政は何とも返さずに受けた。
【注釈】
※1日野江・・・現在の南島原市の北有馬町周辺
※2金剛山、竜門岳、多武峰・・・いずれも重政の旧領・大和二見がある大和国(現・奈良県)の山。
※3口之津・・・現南島原市。日野江城から約13km南下した場所。
※4平戸・・・現在の長崎県平戸市周辺。