2024.01.29

築城400年

島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -弍-

海道かいどうしろ 〜松倉重政伝まつくらしげまさでん

 

天津佳之あまつよしゆき

島原城天守展望所から見る眉山

豊後様ぶんごさま
 新兵衛しんべえ※1の声が、見送りに立った二見ふたみ※2の民の声と重なって、重政しげまさは頭を振った。
 大和やまとから陸路を取って九州に至り、肥後長洲ひごながす※3の津から船で対岸の肥前高来ひぜんたかきに渡れば、そこはすでに日野江ひのえ藩の領地である。長々と輿こしに船にと揺られた重政の足元は、どうかすると覚束おぼつかず、波に揺らされつづけた頭も茫洋ぼうようとしてはっきりせず、大和の幻影がちらついた。
(これも、あの山のせいだな)
 思いながら、目の前に立ち上がる山の尾根を見上げる。
 海辺から急激に立ち上がる斜面は青々とした木々に覆われて、まるで森がそのまま盛り上がったようにさえ見える。大和の山岳に似た、美しくも雄々しい山であった。
「豊後様。土地の者がご挨拶をしたいと申しております」
 再度掛けられた声に、重政は山を見据えたまま、身体だけを新兵衛のほうに向けた。
「許す。連れて参れ」
 そうして新兵衛が連れてきたのは、五十がらみの小男であった。身形は小袖と羽織で整えつつ、よく日に焼けた顔がいかにも漁師といった風情である。
「松倉様、ようこそ島原にお越しくださいました。皆、良い殿様がいらっしゃったと喜んでおります」
「島原……とは、この辺りの土地の名か」
 露骨な世辞よりも、重政はそこを聞き付けていた。
「はい。ここより北、前山まえやま※4の前に広がる原のいにございます」
「なるほどな」
 肥前国高来ひぜんのくにたかき筑紫海つくしのうみ※5に突き出た半島にあり、海からは独立した島のように見える。また、山の端から海辺までの距離が近く、広い平原は限られた。それゆえの名であろう。
「そなた、名を聞こう」
「はい。船津ふなつ源兵衛げんべえと申します」
案内あないを申し付ける。日野江の城まで、頼んだぞ」
 重政は、小大名しょうだいみょうらしい気安さでそう言うと、ようやく源兵衛のあわて顔を見た。
「あの山だが、船の水夫は前山まえやまと申しておったが」
 やはり気になるのは、山のことだった。何もかもが大和とちがう土地にあって、この山の様相ようそうだけが同じに見え、重政にとっては己とこの地とを結びつける象徴とさえ思えた。
「へえ、温泉山うんぜんさん※6の前にそびえておりますゆえ、前山と申します。あのように雲居くもいに眉を引いたような美しい姿は、土地の自慢にございます」
「そうか……そなたらも、あれが美しいと言うのだな」
 美しいという感覚は、土地によって大きくちがうものである。いま、目の前の山に対して同じ感慨かんがいを持てるということは、いずれ自身もこの地に馴染なじめるという証左しょうさでもあった。
 ただ、重政は前山まえやま眉山まゆやま)に美しさだけを見ているのではなかった。大和の金剛山こんごうざん役行者えんのぎょうじゃ所縁ゆかりの霊山であり、厳しい修験しゅげんの山でもあった。前山にも、必ずやその厳しさがあるにちがいないと思えた。それは、新たな領国経営の臨む重政の気構えに他ならない。

ヤマツツジと金剛山

「お前を、わしの新たな金剛山にしてくれようぞ」
 そう独りごつと、重政は再び輿に乗り、源兵衛の先導のもとで高来を南へと向かった。
 島原から日野江まではおよそ六里ろくり※7の道のりを、大和から連れ来った二百名ほどの家臣団とともにゆっくりと進んだ。道すがら、安徳あんとく※8深江ふかえ※9有家ありえ※10などの村々に姿を見せながら、一行が有馬ありまにある日野江ひのえ※11に入ったのは、陽も雲仙うんぜん※6の向こうに沈んだ夜のことだった。
 ――こうして、松倉重政は肥前日野江藩に入部した。時に元和げんな※12二年七月、重政四十三歳のことである。

[注釈]
※1新兵衛しんべえ・・・松倉豊後守重政の腹心・岡本新兵衛
※2二見ふたみ・・・重政の旧領・大和国やまとのこく二見のこと。現在の奈良県五條市。
※3肥後長洲ひごながす・・・現在の熊本県玉名郡長洲町
※4前山まえやま・・・現在の眉山まゆやま
※5筑紫海つくしのうみ・・・現在の有明海ありあけかい
※6温泉山うんぜんさん・・・現在の雲仙岳うんぜんだけ
※7六里ろくり・・・一里は約三,九キロメートル。六里は約二三,四キロメートル
※8安徳あんとく・・・現在の島原市の最南部周辺
※9深江ふかえ・・・現在の南島原市の深江町周辺
※10有家ありえ・・・現在の南島原市の有家町周辺
※11日野江ひのえ・・・現在の南島原市の北有馬町周辺。重政一行は安徳・深江・有家・日野江と南下している
※12元和げんな・・・元和年間は一六一五年から一六二四年。元和二年は一六一六年