2024.02.26
島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -六-
海道の城 〜松倉重政伝〜
天津佳之
– 六 –
寛永元年(一六二四)。都合七年を掛けて、島原の城は完成した。
惣構えは南北十一町半(約一二六〇メートル)、東西三町余り(約三六〇メートル)。瓦葺の練塀でそっくり囲み、七つの門と虎口で固めた堅牢な造りである。外郭は複雑に折れ曲がり、そこに計三十一もの櫓を設えて、外敵に対する備えは万全だった。
城郭は、縄張りの南寄りに本丸・二ノ丸・三ノ丸を南から北へと一直線に並べた。本丸と二ノ丸は幅広く深い内堀で囲み、その外に藩主の居館となる三ノ丸を置いて、実務と儀式の場を切り分けている。本丸と二ノ丸をつなぐのは通称“極楽橋”……屋根と塀を備えた廊下橋で、かつては豊臣家と近しい大名がよく取り入れた意匠だった。
鳳が羽を広げたような屏風折れの石垣は、城の重みを逃がしながら美観を保つための工夫である。そして、その上にそびえ立つ本丸の天守の高さは、じつに十七間(約三十三メートル)。五重五階に積み上げた楼閣は白漆喰を塗り込み、眉山(前山)と並び立つように燦然と輝いて見えた。
(前山よ、これが儂の城、儂の町ぞ)
五十一歳となった重政は、その威容を三ノ丸から見上げていた。
城は完成したが、島原の城下町は依然として発展の途上にある。縄張りの西と北には武家屋敷が立ち並び、海に近い東と南は“商いの町”として広がりつつあった。豊富な山の産品を利用した染物屋をはじめ、酒屋や糀屋、鍛冶屋などの店棚が軒を連ねた。特に多いのは船問屋で、筑紫海を行き交う船の多くが島原を中継として利用し、港は活況を呈している。
そして、城も町も、滲み出す水に沈むことなく、その姿を保っていた。
それもこれも、縄張りの地下にめぐらせた入念な水路網のおかげだった。雲仙岳から地中を流れる伏流水を集めるために竪坑を開けて調整井戸とし、集めた水を地下に設けた石組みの水路に逃がすことで、城の基礎となる地盤を守る仕組みである。
重政はこの仕掛けをさらに発展させ、城内外の各所に満遍なく水をめぐらせて、誰もが気軽に水を利用できる環境を作った。酒屋と染物屋が増えたのは、いつでも身近に雲仙の清水があるためとも言えた。こうした商いをさらに広げるため、重政は大和二見でしたのと同じように、城下で商いする者の諸役を減免する優遇措置を取っている。
いまだ途上とはいえ、重政の狙いは果たされつつあった。
その一方で、すべてがうまく行ったわけでもない。
将軍・秀忠の意向のもと、キリシタンに対する締め付けは厳しくなり、重政もまた幕府の方針に服さざるを得ない状況に陥った。交易を周旋していた潜伏キリシタンの伝手を失い、それにつれて海外との交易は年々難しくなっていった。不調に終わる交易も増え、南蛮との貿易による理財は、当初想定したよりも小さくなり、築城普請の費えを埋め合わせるに届かず、領民に過分な夫役を強いる事態となってしまったのである。
(それでも、だ。この城と町は、必ず財を生み出す)
何しろ、城はできたばかり。町もまた広がりはじめたばかりである。重政が志したものは、すぐにでも成果が表れる類いのものではないし、いまは築城費用の不足を民に強いている部分もあろう。
だが、必ずやこの町が栄えるときが来る。海という街道がもたらす物と人とを糧に、この海に欠かせぬ場所となることを、重政は信じて疑わない。
そう思う重政の目には、もはや大和の幻影はない。眉山も、深い蒼の空も、遥かに響く海の波音も。それは何かの代わりでも、馴れぬ異郷のものでもなく、重政自身のものとなっていた。
「ここが、儂の国だ」
そう言って、重政は酒杯を眉山と天守に向かって掲げた。島原で育てた米を、雲仙の清水で醸した酒は、甘やかで爽やか。それを喉に流し込み、太く笑った。
終
【注釈】
※1眉山・・・旧称・前山
※2雲仙岳・・・旧称・温泉山
※3大和二見・・・重政の旧領