2024.02.12
島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -四-
海道の城 〜松倉重政伝〜
天津佳之
–四–
それからの二年間、重政は国内巡見に力を注いだ。日野江を中心とした雲仙岳の南側はもとより、そこから東にまわった島原から三会、多比良。あるいは西にまわって串山、小浜、千々石。雲仙岳という火山が形作ったこの半島は、どこにおいても起伏が激しく、平地は少ない。
「随分と川の多い土地だな」
ざっと調べただけでも領内に大小五十以上の川があり、特に雲仙岳(旧名・温泉山)の東から南に掛けての一帯は、豊富な水源に支えられて農産物も多い。火山に作られた土地ではあるが、決して地味が悪いわけではなかった。
火山と水とくれば、当然ながらついてまわるのは温泉である。“温泉山”の名で上古の時代から呼ばれてきた通り、山中から周辺に至るまで、豊富な湧出量を誇る湯本が数多くあった。特に雲仙山中の湯本は、吹き出す水蒸気と硫黄が堆積した一種異様な有り様から「地獄」と呼ばれ、修験道の霊場としても知られた。源泉の熱も高く、水で薄めなければ人も茹で上がるほどだという。
そしてもう一カ所、温泉に恵まれていたのが西の小浜である。千々石灘(現在の橘湾)に向かう断崖の地には硫黄の匂いが立ち込めて、流れる川は夏にも湯気をまとうほどである。
重政は、この小浜の湯にぞっこん惚れ込み、巡見のついでに足繁く通った。戦の古傷に、日々の疲労によく沁みて、心からくつろげる気がしたのだ。
「ええ。これもまた、温泉山の賜物と土地の者は申します」
湯上りの重政の相手をしているのは本多親能、日野江が幕府領となった慶長十九年に三河から町役人として小浜に入った男である。そして余程ここが気に入ったらしく、日野江が松倉領になっても離れることなく、庄屋として居残ったという。
その名字が示す通り、親能は徳川譜代の本多一族の末流である。その意味では、幕府に伝手を持つ者として、重政にとって重宝する男であった。
「あの高く険しい峰が雲を押し留めるために、山頂辺りではよく雨が降るそうでしてね。降った雨が山に沁み込み地中を流れ、溶岩に洗われて澄んだ水となって流れ出るとのことです」
「それにしても、水が多すぎる。大雨になればすぐ水があふれるではないか」
実際、そのとおりだった。火山によって形作られた急峻で複雑な地形は、狭小な谷に雨水が集中するうえ、急勾配を一気に駆け下るために水害を助長した。
「大和の盆地の民からすれば、羨ましい限りでしょうが。あちらは水がなくて困らされたものですから」
重政について湯につかっていた新兵衛もまた、できあがったように紅潮した顔を手で仰いでいる。
「たわけ。大和の民がここにいるわけでもあるまいに」
詮無いことを言う新兵衛を叱りつけながらも、重政が思うのもまた大和のこと。ただし、大和盆地の水に乏しい平野ではなく、旧領である大和二見のことである。あの地に流れる紀の川は吉野を水源とする暴れ川で、夏や秋の雨季にはよく氾濫を起こした。そのために、重政は治水について詳しくならざるを得なかったのである。
「まあまあ。しかし、だからこそ松倉様は、ため池をお造りになったのでしょう?」
親能の言うとおり、重政が領内整備でまず力を入れたのは治水だった。有馬川の流域にいくつかのため池を整備したうえで、雲仙からの水がまわりにくい南西部の台地に巨大なため池を掘り、有馬川の源流に当たる坂下川の水をそちらに逃がすよう水路を開いている。川があふれやすい有馬と、干害に悩まされる串山、それぞれの問題を一手に解決する両得の策だった。
「小浜にも真水が多くまわるようになりましたし、串山の連中も松倉様に感謝しておりますぞ。沢の神じゃと、あの池を“諏訪の池”と呼ぶ者もあります」
「大袈裟な。領内を整えるのは当たり前であろう」
重政は当然のように言うと、首に掛けていた手ぬぐいで滲み出る顔の汗を拭い、
「亡き大御所様の御遺命もあるでな」
そう付け加えた。
「大御所様の、にございますか?」
かつての幕臣として、親能が聞き返すのは当然である。差し当たって、江戸表の知己からそういった話を耳にしたことはなかった。
「然様。儂が駿府で大御所様に謁を賜ったのは、亡くなられる直前の四月だった。そのとき、申されたのだ。大坂の仕置はまだ道半ば、とな」
そう言うと、重政は板間に広げていた九州の地図を指さして見せた。
「見よ。高来は、筑紫海を挟んで肥前肥後の中央にある。そして周りの大名は皆、豊臣恩顧の方々ときておる」
確かに、重政の言うとおりだった。例えば神代で領地が接する肥前佐賀三十六万石の藩主・鍋島勝茂は豊臣秀吉に豊臣姓を下賜されたうえ、関ヶ原の戦いでは豊臣方の主力となった。父・直茂の機転で家康の許しを得たものの、勝茂の直轄領は削られ、それがもとで分家に軽んじられているという。
筑紫海を挟んだ柳川三十三万石の主の田中忠政は、大坂の陣の際に旧主・豊臣家に与力すべしという家臣団を抑えきれなかったという瑕疵がある。さらに東の対岸の肥後熊本五十二万石は、豊臣秀吉の子飼いとして名高い加藤清正の領地であり、清正亡き後は世子の忠弘が継いだものの、幕府の厳しい統制に不満が高まっているという。
口之津の対岸にある天草を飛び地として治める唐津二十二万石の寺沢広高も、かつては秀吉の子飼いであった。その死後は家康にすり寄って関ヶ原では徳川方についたかと思えば、豊臣方についた島津氏の助命のために言を左右にするなどして、信用を失っていった。
これらの外様大名に対して、高来は内海を挟んで相対する位置にある。これこそ、有馬氏転封ののち高来日野江が幕府の直轄領となった理由であり、自身がここを任された理由だと重政は理解していた。
「大坂の陣からまだ一年余り、外様の大名が幕府に異心を抱くとも限らぬ。それを抑えるにはどうすればよいか、分かるか新兵衛」
「ありませんな。これほどのお歴々を相手に、たかが四万石の殿ができることなど」
「無論そうだ。それに言うたであろう、もう戦など起きぬ。……起こさせてはならぬ」
恐らくは、それが大御所の今際の願いだと、重政は考えていた。
戦となれば、高来日野江四万石など、吹けば飛ぶようなものに過ぎなかった。だが、もう戦は起きないし、起こさせないために家康は幕府を開き、対立する権威となり得る豊臣を滅ぼして武家の惣領となった。武家と言えど、もはや何事かを武力に訴えることなどできないし、泰平の世となったいま、それをさせてはならないのである。
そして、だからこそ重政のような小大名でもできることがある。
「栄えさせるのよ。この高来を、周囲が羨むほどに、な」
例え小藩であっても、領地を整え、町を開き、産業や商いを起こして栄えることはできる。重政はそれを、大和二見の治政でよく知っている。かの地もたかが一万石、しかし大和と紀伊と吉野を結ぶ要衝を抑えたことで、山間の地にもかかわらず商いの町となり、南大和の中心地として無視できない存在となったのである。
いま、同じことをこの高来でやるべきなのだ。それによって、周囲の大名たちから武力にたのむ気を喪わせ、統治と政事に打ち込むことが結局己に利するのだと、知らしめるために。
「だからこその新町であり、城ということですな」
主の考えに思い至り、新兵衛は茹で上がった顔をさらに赤くして返した。
「そうだ。日野江では、それができぬ」
「では、どちらになさいますか」
親能は、この新領主の気宇に半ば感心したように尋ねた。
「やはり島原よ。あそこであれば、広がりも、道も十分」
結局、重政の結論はそこに落ち着いた。雲仙の東、眉山の膝元に広がる島原ならば、大和二見をも上回る城と町を築けるはずである。大大名たちでさえ驚嘆するほどに栄えた町。時代の変わり目を知らしめる壮麗な城。それこそが、重政がいま求めるものであった。
しかし、親能にはひとつだけ、腑に落ちないことがあった。
「道など、ございませんでしょう」
「ある。目の前に太い道が……海の道があるではないか」
言いながら、重政は地図の島原に指を置いた。まさに先ほど重政自身が言ったとおり、そこは内海の中央にあった。ここを拠点とすれば内海の海運のすべてを押さえ、そこに流れる財を集めるのも叶うであろう。
そうして見れば、内海は海の街道に相違なかった。そしてその道は、口之津を経て、遠くアジアや南蛮にまでつながっているのである。
「本多殿。これを江戸表に願い出ようと思うが、どうかね」
重政が問うと、親能は面白がるように笑い、
「大御所様の遺命となれば、上様に否やはありませんでしょう」
そう気楽な声で請け負った。
[注釈]
※1雲仙岳・・・旧名・温泉山。
※2日野江・・・現在の南島原市の北有馬町周辺。重政が居城としている日野江城がある。
※3慶長十九年・・・西暦一六一四年。
※4大和・・・大和国。重政の旧領は大和二見。
※5新兵衛・・・松倉豊後守重政の腹心・岡本新兵衛。
※6大御所様・・・徳川家康を指す。
※7大坂・・・大坂の陣を指す。この戦いで武功をあげた重政は肥前日野江四万石を拝領した。
※8神代・・・現在の雲仙市国見町神代周辺。重政が湯治をしている小浜から約27km離れている。島原半島の北部に位置する。
※9口之津・・・現南島原市。重政が湯治をしている小浜温泉から約22km南下した場所。松倉領。