2024.01.22
島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -壱-
海道の城 〜松倉重政伝〜
天津佳之
有明海から見た島原半島
–壱–
「蒼いな」
つい声に出しながら、松倉重政は空を仰いだ。
南海の空の蒼さは目に沁みるほど深く、その見慣れなさに彼は瞼を細めた。
重政は、生まれも育ちも畿内の大和国である。そして、山に囲まれた大和の空は、いつも霞掛かったようで、青も煙るように淡かった。
何より、空を遮るものがない。何しろここは、海のど真ん中である。遠く低いところに陸地はあっても、大和のように空の半ばを塞ぐほどに険しい山々があるはずもない。
蒼穹という言葉のとおり、見上げた空は弓形を描いたように深く、上天に開けた視界の明るさは目が覚めるようだった。
「同じ天の下にありがながら、こうも色がちがいますか」
掛けられた声に振り返らず、重政は頷いた。その後ろに近づくのは岡本新兵衛、まだ若いが腹心として重政の信頼厚い偉丈夫である。
「海というやつのせいかも知れぬな」
答えながらも、重政は船を揺らす海原を見ない。山間の国である大和に海はない。だからというわけではないが、馴染みがないのは確かで、彼には海の広さと深みに対する不審感があった。
「……何もかもが、大和とはちがう」
船尾から遠ざかっていく陸を見るにつけ、その感慨が重政の胸を占めた。だが、それは不安ではない。己の昂りを内に収め、目の前の事をありのままに見据えた結果にすぎない。
その心持ちは、戦の前にも似ていた。
「いいえ、高来にも似たものはあるようですぞ」
沸き立つ心と静かに向き合う重政に、新兵衛の声はどこか笑って聞こえた。振り返って見れば、新兵衛は舳先のほうへと歩きながら、高く張った帆の向こうを望んでいる。重政は訝りながらも、その視線をたどり、そして、思わず目を丸くした。
それは、空を塞ぐ巨大な塊だった。一面を深い緑に覆われた壁のような山体と、天を衝く鋭峰。左右につらなる稜線は深く切れ込み、その向こうから微かな煙が立ち上っていた。
(竜門岳か、金剛山か)
その威容に、重政は思わず故郷の深山を幻視した。厳めしくも清々しいその山を見るうちに、重政の口もとは自信と希望とで笑みを刻んでいた。
「あの山が、温泉山か」
誰にともない問いに、近くで縄を繰っていた水夫が顔を上げた。
「へえ、左様で」
「峰が連なっておるが、それぞれに名前はあるのか」
「手前が前山、ほかにも奥山やらごぜぇます」
「前山か……風雅な姿よ」
呟くと、重政は力強い足取りで舳先へと向かった。そうして、目の前にそびえる険しくも優美な稜線を描く山へ、挑むように慠然と顔を上げた。
見るほどに、旧領・大和国二見を見下ろす金剛山に似ていた。
現在の奈良県五條市(大和国二見)の風景
松倉重政は天正二年(一五七四)、大和国に生まれた。
父は松倉右近大夫重信。平城京の故地に覇を唱えた筒井順慶に側近として仕えた猛将で、のちに石田三成の側近として勇名を馳せる島左近清興と並び、筒井の「右近左近」と称される重臣であった。
やがて筒井家が豊臣秀吉に仕えるようになり、天正十一年には重信もまた、大和高市郡越智三千石を与えられた。筒井順慶を主としつつも、豊臣の直臣となったのである。天正十三年、国替えによって順慶の遺児である筒井定次が伊賀に転封すると、父の重信は主家に従って伊賀へ移り、名張に知行八千石を得た。
もっとも、地方大名の群雄割拠から、豊臣政権による天下統一に向かう時代にあって、重政は時流を敏感に感じ取っていた。
(俺の才はもっと大きな場所、天下さまの采配のもとでこそ、存分に腕を振るえるというものじゃ)
筒井家が重臣同士の争いで揺れるなか、父から家督を譲られた重政は筒井家中と距離を取り、豊臣直臣として領地経営に勤しんだ。やがて秀吉が死ぬと、五大老の筆頭であった徳川家康をつぎなる天下人と見定めて彼に接近していった。反家康の旗を挙げた会津上杉の征伐に参陣し、つづく石田三成蜂起の報に接しては、先鋒としていち早く美濃へと進出して竹ヶ鼻城の攻防で活躍。関ヶ原の戦いでは、井伊直政の手に加わって先陣として軍功を挙げている。
関ヶ原古戦場決戦地
この功が、のちに重政を救った。慶長十三年(一六〇八)、筒井騒動によって主家が取り潰しになり、重政も領地を没収されようとしたところ、先の軍功に報いるためと、一転して大和国の二見一万石を領することになったのである。
二見は、深い山間にある狭小の地だが、紀の川の水運と吉野街道をはじめとする多数の街道が交差する、大和と紀伊をつなぐ要衝であった。そこに行き交う人と物の流れに目を付けた重政は、城下に新たな“新町”を整備。商業を保護して諸役を減免し、南大和の中心となる宿場町へと発展させた。
加えて、慶長十九年(一六一四)の大坂冬の陣で、重政はまさに獅子奮迅の活躍を見せた。筒井家旧臣の多くが豊臣方に加わるなか、数少ない徳川方として参陣。真田の戦ぶりで名高い真田出丸をめぐる攻防で最後まで戦つづけ、寄手の大将である藤堂高虎の弱腰を叱りつけたほどであった。さらに翌年の夏の陣では、伊賀・大和における豊臣方の策動に気づき、戦の端緒となった大和郡山城の救援にいち早く駆け付けた。
こうした重政の活躍ぶりは、もちろん家康の耳にしっかりと届いていた。夏の陣で、重政をはじめ大和の武士団を率いることになった譜代の水野勝成に対して、家康は「去年の冬の陣において、藤堂高虎が大和衆の大将たりといえども、その命に従わざる者がいた。もし、大和口の諸将が汝の命に服さなかったら踏みつぶしてもよい」とさえ述べて励ましている。裏を返せば、それほどに重政の実力を認めていたと言えるであろう。
武勲と治績……双方での功績は、重政の望む通りの立場を新たにもたらした。肥前国高来郡、日野江四万石への移封である。伊達や前田といった大大名を除けば、大坂の陣の論功行賞で最も大きな加増を受けたことになる。つまりは、重政の手腕を天下人が買ってくれたということでもあった。
元和二年(一六一六)四月、日野江転封の内意を江戸で受けた重政は、大和への帰路に合わせて家康の居城・駿府に立ち寄った。家康に、このたびの厚遇への礼を述べるためである。
「豊後はまめに務めるな」
病床で対面した家康は、重政をそう評した。征夷大将軍の座から降り、大御所となった天下人もすでに七十五歳。重く垂れ下がった眼は、死を前にして凪ぎ枯れて見えた。ちなみに、豊後とは、重政の通称である。
「まめ……にございますか?」
「然様。己の功名に、じつにまめに応えよる」
老いたりと言えどさすが天下人、重政の本質をしかと見抜いていた。
かつては豊臣政権、いまは徳川幕府。そういった大きな枠のなかで働きを示し、功名を果たしていくことが、重政には面白くて仕方がない。関ヶ原や大坂の陣での武功はもちろん、大和二見の統治も、その功名心を満たすためにしたことだった。
「大御所さまにそうお認めいただけるとは、大変な果報にございます」
そして、この功名心を大御所が好意的に見ていることにも、重政は自覚的だった。
そもそも伊賀筒井家の取り潰しは、畿内から豊臣恩顧の外様大名を排する狙いがあったと、重政は見ていた。そのうえで、己が大和から追い出されなかったのには相応の理由が、家康の意図があったはずである。
いま、大和二見一万石から肥前日野江四万石への加増という結果を見れば、その意図を重政が果たしたのであろうことは明らかだった。
「御領地をお預けいただくからには、なお、まめに勤める所存にございます」
日野江は、代々有馬氏が治めるところであった。が、先代の晴信が有馬旧領回復とマカオとの貿易に絡む疑獄事件、いわゆる“岡本大八事件”を起こし、改易のうえ斬刑に処せられた。晴信の子・直純は、父と疎遠であったことや、家康の側近くに仕えてその覚えめでたかったこともあり、お咎めなしでそのまま日野江を安堵された。
が、当の直純自身が居たたまれなかったらしい。彼は転封を願い出て許され、二年前に日向国延岡へと移った。こうした経緯から日野江は、幕府の直轄領となっていた。
「言わずもがなだが」
何気ない口調に顔を上げた重政は、そこで面を改めた。横になったまま己を見る家康の目は、笑っていなかった。
「先年の戦の仕置は、まだ半ばぞ。努、それを忘れるな」
豊臣を滅ぼした大坂の陣から、まだ一年も経っていない。豊臣方についた武将や浪人どもの処断は済んだが、徳川方についた豊臣恩顧の大名も多い。特に西国は、関東に地場を持つ徳川幕府の支配が十分に行き届いているとは言い難かった。その渦中へと重政を配す意味とは、何か。
家康のそうした言外の意図を汲んだうえで、重政の口もとは再び笑みを刻んだ。これこそ、己が挑むに相応しい勤めと思えた。
「御意。必ずや、ご満足いただける働きをご覧にいれまする」
駿府を辞した重政は、すぐに五條二見にもどると、速やかに国替の支度に掛かった。六月には天下人・家康の訃報が届いたが、弔問無用との幕府の命に従い、子の勝家に伺候させるに留めた。そうして七月、多くの民に惜しまれ、見送られながら、大和国を後にしたのだった。
[注釈]
※1温泉山・・・現在の雲仙岳
※2前山・・・現在の眉山
※3奥山・・・現在の普賢岳
※4大和国二見・・・現在の奈良県五條市