江戸時代の島原Q&A

「島原の乱」について

1.島原の乱はなぜ起こったのですか。
 

藩主・松倉勝家(重次)の政治がよくなかったから、領民が一揆を起こした。

理由は、
(1)年貢が多くなった。
(2)天候が悪くて収穫が少なく、年貢が納められない。
(3)それでも年貢を厳しく取り立てた。
(4)キリスト教を厳しく取り締まった。ことなどで、領民の不満が高まっていた。
2.乱は主にどのあたりで起こったのですか。
 1637年10月25日、有馬の村で始まった。26日には南部各村の人が島原城を襲ったが、失敗した。また三会や串山など各地で農民の反抗が始まった。
 11月になると、天草での農民が反乱を起こして富岡城などを攻撃した。     
 12月になると、島原と天草の農民たちは原城跡に集まって反抗を続けた。
3.戦いには作戦などがありましたか
  農民たちは、村ごとに集まって防衛陣地を決めていた。村の庄屋たちが談合人となって村人をまとめ、毎日の世話をし、浪人たちは評定人となって戦の準備や、村人の軍事面を指導した。村人はキリスト教を再び信仰して、毎日神に祈っていた。  
4.原城跡に立てこもった期間はどのくらいでしたか。
 原城跡は、幅200~300メートルに長さ1000~1200メートルで、約12ヘクタール。この狭い所に、約3万人が12月初めから翌年2月28日までの3ヶ月間籠城した。
5.どのくらいの人が戦いましたか。
 農民たちは2万7000~3万7000人で、島原半島の南側の人はほとんど全員参加、天草側は有明海側の人が多かったようだ。その中には、子どもや老人、女の人もいた。
 武士・幕府側は約12万人で、九州各藩兵や、遠くは福山藩兵も参戦した。
 死者は農民側が全員(2万7000~3万7000人)。幕府藩兵の死傷者は約2400人。
6.どんな武器を使いましたか。
 農民たちは鉄砲、刀、やり、カマ、クワ、石や木の棒などありとあらゆるものを使った。
 武士は鉄砲や刀、やり、大砲(オランダ船からは大砲を打ち込んだ)。
7.戦いの間は何を食べていましたか。
  立てこもるときに米や麦、野菜などをもってきていたのでそれを食べていた。島原藩の蔵から米を奪ってきていた。はじめは食料が大体あったが、終わり頃にはそれも食べ尽くして、海岸で海草をとったり、草や根っこなどを食べた。しかし次第に食料が不足していった。
8.キリシタンとは何ですか。
 キリスト教信者のこと。キリスト教は島原では1563年から広まり、領内のほとんど、約3万人が信者だった。
9.天草四郎とはどんな人ですか。
 宇土領主・小西行長の家臣、増田甚兵衛の子で四郎時貞といった。1623年生まれといわれ、長崎でキリスト教やいろんな学問を習っていた。16歳のときに乱が始まり、みんなのまとめ役になった。
 2~3万人の農民をまとめる中心人物で、シンボルとなった。キリシタンの信仰の中心となって、神父役を果たしていたようだ。