江戸時代の島原Q&A

島原城主について

1.なぜ松倉氏は島原城を築いたのですか。
(1)政治、支配の中心地として、原城や日野江城では南に片寄り都合が悪かったので、有明海交通の中心地の島原に目をつけた。
(2)キリシタンの中心地から離す必要があった。
(3)新藩主の権威を広く示すために、新しく城を造った。
(4)もし合戦になったとき、防衛上の拠点にするため強固で大きな城を必要とした。
2.松倉氏はどんな政治をしましたか。
(1)島原城と城下町の建設(領国の中心地づくり)。
(2)検地をして領内の経済状態をつかんだ。
(3)池や堤防など土木工事で、農業生産力を向上させた。
(4)有馬氏に続いて南蛮貿易で利益をあげ、豊かな財政であったようだ。
(5)キリスト教を取り締まった。
3.松平氏はどこから、何のためにきたのですか。
(1)松倉氏が島原の乱の責任をとり、その後やってきた高力氏も政治に失敗したので、混乱した島原地方を立て直すために、幕府の仲間の譜代大名を送り出した。
(2)九州に多い外様大名の中に譜代大名を入れて、監視役と長崎奉行の後見役(海外貿易の監視など)とした。
(3)出身地は、深溝(愛知県)で、忍、小見川、刈谷、吉田と転封し、福知山(京都府)から島原へ、1669(寛文9)年に松平忠房がやってきた。
4.松平氏が戸田氏と途中で交代したのはなぜですか。
 島原藩5代藩主に12歳の忠祇がなったので、幼い藩主では九州の隠れ目付役や長崎の監視の役割は難しかろうと、宇都宮藩主の戸田忠盈と1749(寛延2)年に交代させられた。
5.城主として、他にどんな人が活躍しましたか。
松平氏は、忠房から13代忠和まで続いた。その藩主は次のとおり。
(1)松平忠房(ただふさ):1669(寛文9)年福知山よりー1700(元禄13)年江戸で病死(81歳)
三河出身の譜代大名、18松平(徳川)の1氏、島原松平氏の元で7万石
(2)松平忠雄(ただたか):1698(元禄11)年ー1736(元文元)年江戸で病死(63歳)
「島原大概様子書」を作る
(3)松平忠俔(ただみ):1735(享保20)年ー1738(元文3)年島原で病死(27歳)
普賢堂や三十番神の建立
(4)松平忠刻(ただとき):1738(元文3)年ー1749(寛延2)年下松で急死(33歳)
櫨木十万本を植える
(5)松平忠祇(ただまさ):1749(寛延2)年継封、宇都宮へ転封ー1762(宝暦12)年死亡(63歳)
幼少につき、戸田氏と交換転封
戸田忠盈(ただみつ):1749(寛延2)年宇都宮より入封ー1781(天明元)年死亡(52歳)
戸田忠寛(ただひろ):1754(宝暦4)年ー1774(安永3)年宇都宮へ転封
(6)松平忠恕(ただひろ):1775(安永4)年宇都宮より入封ー1792(寛政4)年守山で死亡(50歳)
念願かなって島原へ入封したが、寛政大地変の発生で急死
(7)松平忠馮(ただより):1792(寛政4)年ー1819(文政2)年江戸で病死(48歳)
大変後の領内復興に尽力、藩校・稽古館の創設
(8)松平忠侯(ただよし):1819(文政2)年ー1840(天保11)年島原で病死(41歳)
藩校・済衆館創設、大手浜干拓
(9)松平忠誠(ただなり):1840(天保11)年ー1847(弘化4)江戸で病死(23歳)
島原太吉の漂流・メキシコから帰国
(10)松平忠精(ただきよ):1847(弘化4)年ー1859(安政6)年島原で病死(27歳)
プチャーチン長崎へ来航・島原藩兵出兵、開国
(11)松平忠淳(ただあつ):1859(安政6)年ー1860(万延元)年江戸で病死(16歳)
夭折、島原へ赴任できず
(12)松平忠愛(ただちか):1860(万延元)年ー1862(文久2)年江戸で病死(17歳)
再び夭折
(13)松平忠和(ただかず):1862(文久2)年ー1869(明治2)年
大政奉還、版籍奉還、島原藩知事となる。明治5年東京へ引揚げ、島原城の解体