城内を歩く

キリシタン史料

キリシタン史料
 
キリシタン史料
 この貿易・宣教時代のコーナーでは、華やかだったキリシタン文化や南蛮渡りの文物が展示されています。
 戦国時代の終わりに、ポルトガル人が相次いで来航して、新しいヨーロッパ文化を伝えました。島原地方にもキリスト教をはじめ南蛮文化が栄えました。
 当時の領主・有馬晴信は南蛮貿易を積極的に進め、自らキリシタン大名となってキリスト教を保護しました。それで島原地方はキリシタン王国のようになりました。領内各地に教会が建てられ、有馬にはセミナリヨ(初等神学校)が、後では加津佐にコレジオ(高等神学校)が開かれました。当地の千々石ミゲルたち4少年は、はるばるローマまで旅立って、教皇に拝謁するという快挙を成し遂げたのです。この東西交渉史上の輝かしい1ページは、ここ島原から始まったのです。
 禁教時代のコーナーでは、激しい弾圧の中でも信仰を続けた多くの証を集めています。
 盛んなキリシタンでしたが、豊臣秀吉の宣教師追放令から始まる江戸幕府の禁教令と鎖国令によって一変します。激しいキリシタン弾圧が始まり、領民は棄教するか命を奪われるかの厳しい選択を求められたのです。
 このような厳しい時代の中にも、信仰の自由を守り通した人々がいました。そのような人たちを隠れ(潜伏)キリシタンといい、他人の目に触れないように、イエスやマリアの姿を他の像になぞらえて信仰を続けていました。隠れ(潜伏)キリシタン関係の収集資料としては全国的にも有名で、貴重な資料が多く展示されています。
 島原の乱コーナーでは、全国を震撼させた一揆の様子を物語る史・資料を集めています。
 有馬氏に代わって、松倉重政が新城主として入国しました。新城主は島原城を築城して、島原地方の治世を強力に推進した。しかし子・勝家(重次)の代になると、領民への苛政が続き、島原の乱が起こります。
 3万もの一揆農民をまとめた天草四郎の絵、3ヶ月にわたる激しい戦いを描いた攻防図、当時使われた手作りの槍や打ち込まれた砲弾など。原城跡に篭城した農民たちは全滅させられましたが、彼らが祈り続けたであろう黄金製の十字架は、その悲劇の目撃者です。
 乱の後、島原領南部一帯は亡所となりますが、次第に復興しました。しかしその後、厳しいキリスト教の取締りが行われました。踏絵や禁制立札、宗門人別帳などはそれを物語っています。